sisiruirui

基本的にVtuberについていろいろ考えている。にじさんじが主。Twitterの内容をまとめるよう

Vtuberファン(くそでか主語)の特異性

Vtuberの中の人についての話。あとツイッターに挙げている自己陶酔文章の延長線みたいな感じだからまじで読まないでいいぞ。あとにじさんじバイアスがすごい。

事前情報として相手方も別の沼に沈んでいるオタクっていう点がある。
そこも解釈というか考え方に違いを持たせる要因だと思っている。

輝夜月の中の人が○○さんではないのか。っていう話を振られて若干の戸惑いと憤怒の気持ちを持ったが、その時の自分の思考が「中の人について言及することがマナー違反であることをなぜわからないのか」という安直なもので、これはよくよく考えると相手方からするとなにも変な質問ではないんだな。っていう考えに至った。

相手側の生きる界隈は主にアニメ(ゲーム)で、声優が公開されたうえでキャラクターを知る(逆も然り)から、声優が誰なのか。っていう疑問は当然のものでこちらの思考を知らないのは当たり前だった。

Vtuberとアニメキャラの共通点についてあげると、メタ的な発言が入るが

・中の人がいる

・現実に存在しない

の二点が大きなものだと考えている。

だがその共通点を掘り下げると、Vtuberとアニメキャラの相違点になるとも考えている。

まず「中の人がいる」という点

アニメキャラはCV○○のように中の人を隠すという動作をせずにいる。これはキャラ側に元々設定、性格、好み、などがあり、その上台本の用意もあり感情も用意されていて一つの人格として完結しているから中の人がそこに干渉する余地がない、「人格乖離型」に相当するものだから隠す必要がないのだと自分は考えている。

 

一方でVtuberは中の人を隠す。中の人というワードを「魂」と呼び変えお茶を濁している。その理由も多岐にわたっている。

キズナアイ輝夜月などを対象に話すと、彼女たちも一応は「人格乖離型」に含まれる。(ミライアカリ、シロも同様)それでも魂と形容される理由は、台本の密度とキャラクターと魂の関係性にある。彼女たちは魂が死んでも次のキズナアイが出てくることができるのである。それこそドラえもんの声優が変わるように、中の人が変わるのである。

例えばキズナアイは、自分のことを「インテリジェントなスーパーAI」と呼んでいるようにあくまでActiv8株式会社に開発されたAIであり、中の人など存在しないのである。と謳っている。そもそも魂というワードは彼女のその「AIであり中の人はいない」という考えを尊重するために生まれたようなものである。しかしメタ的にいうとそれもあくまで設定であり事実ではない。また、彼女は主に動画での活動をしているがそこに完全に定められた台本があるかといったらノーである。特にゲーム実況についてはそれが顕著で、某バイオハザード7の実況では突発的にF○ckなどとのたまっており、キズナアイの魂自身の感想がキズナアイを通して伝えられている。おそらくあるのは大まかな発言指針だけで、用意されたセリフなんてものはないのである。この点を考えると個人的にはVtuberとアニメキャラを比較する。という点が間違っている気がしなくもない。どちらかというと比較すべきは声優とVtuberだと思っている。

本題に戻ると、これが台本の密度と中の人とキャラの関係性である。

もう一つは「人格依存型」と呼ばれる種である。

これには月ノ美兎(を筆頭ににじさんじの大部分)などが該当する。彼女たちにも一応は設定が存在している。例えば月ノ美兎の設定は、

高校二年生。性格はツンデレだが根は真面目な学級委員。本人は頑張っているが少し空回り気味で、よく発言した後で言いすぎたかもと落ち込んだりする。

https://www.ichikara.co.jp/official )

だ。だがそんなことは一切ない上に初期のころ設定に入っていたはずの「清楚である」という文章は消されている。設定が魂によって捻じ曲げられたのである。またほかにも彼女たちはもとは設定されていなかったはずの「身長」を配信内で自称であれど公開することによって、それを設定に昇華させているのである。

少し話題が横道に入ったので本題に戻る。

配信をみればわかるが彼女に脚本などは基本的に存在しない。キズナアイらと違い彼女は生放送での雑談を中心に活動しているから当たり前ではあるが、そこで新に予期していない設定が魂が原因で生えてしまうのである。少しマイナスなことを言うと、あの魂が入っていない状態の月ノ美兎が生み出すものは限りなくゼロに近いのである。どこかの区切りでにじさんじライバーの魂が他のものと変わったとしよう(前魂とスペックは同等レベルのものとする)。その場合起きるのはいちからの倒産だと考えている。ドラえもんサザエさんの声優が総とっかえしたとしても終わることはないが、にじさんじの場合は終わるのである。それが「人格依存型」といわれる所以である。魂からもたらされるものの量は尋常ではないが、ガワからもたらされるものはそれに比べると微々たるものなのである。ここまでを前提とした上で彼女たちは「中の人はいない」と言うのだ。魂が経験した話をキャラを通して語ったり、魂の思考回路を優先し設定を捨てたりしている彼女たちでさえ中の人の存在はないものとしている。(一方で樋口楓は、楓と美兎~夏休み~において第二のでろーんという話題に触れている。)

人格依存型はキャラと魂の関係が、キャラ≦魂になっているのである。一方で人格乖離型はキャラ≧魂になっている。

ここがアニメキャラとの最大の違いだと考える。まずアニメキャラは、キャラと中の人が等符号etcで結ばれるということ自体がないのである。キャラに対して中の人が何かを発信することがなければ逆もまた然りという感じだ。

 

次は、現実世界に存在しない。という点

これはまぁアニメキャラに対しては当然のことなので割愛する。

ここがタイトルにもあるVtuberの最大の特異性だと思っている。というよりは(主語が大きくなるが)Vtuberファンの特異性である。

 

まずはキズナアイ等のAI、電脳少女を名乗る面々について語ろう。

彼女たちは僕らのいる現実空間には存在していないが現実世界の電脳空間に存在しているのだ。そのためOculusをはじめとするVR機器、配信機材の存在を徹底的に隠そうとしている。そして僕らとは違うその世界で学校に通ったり、ゲームをしたりしている。これは下記の面々と違い確立が容易である。そもそもオフラインコラボなんというものは存在せずに、彼女たちにとってコラボ=オフライン(但しネットの世界)なのである。実際に会うのはあくまで電脳空間であり、対面するのもキズナアイ本人なのだ。だからふるまう必要もないのだ。

次はその特異性が特にわかりやすいにじさんじを例にあげて話す。

僕は彼女たちが確かに存在すると信じている。おそらく他の多くの面々もそう信じているだろう。いうならば集団幻覚を見ようとしているのである。例えば月ノ美兎と樋口楓のオフラインコラボや、剣持刀也と伏見ガクのオフラインコラボは僕らの脳内では実際にこの世界のどこかで彼女らがキャラの絵そのままの姿で動いている様子が投影されているのである。そして彼女たちもあくまでそのキャラで存在しているかのようにふるまっているのである。そう考えると不等号の向きは変わらないが人格依存型はキャラ依存型と併発するものなのではないだろうか。僕らは現実に存在するはずもない彼女たちを現実に存在していると思い込み、彼女らは彼女たちが現実で生活しているようにふるまうという二方向からの働きかけで、存在を強調しているのだ。楓と美兎配信を例に挙げると、呼び方が存在をより強固にしているのだと思う。彼女たちは実際に対面し、画面のガワ越しではなく魂と向き合って会話をしているのだが(当然のことだが)「楓ちゃん」「美兎ちゃん」と呼び合うのである。それによって僕らはいつも画面越しに会話をしていた樋口楓と月ノ美兎が現実世界のどこかで出会ったというバイアスを(自ら)かけるのである。また、配信機材の存在というのも大きい。大体のVtuberはアプリや配信機材を隠そうとする。がにじさんじはそれとは大きく異なり、それぞれのキャラが配信を始める理由が存在しており、にじさんじが配信に使用している機材は基本的にiphone10でそれを彼らはストーリー(前設定)の中で拾ったり与えられたりしているのだ。それにより得られる効果は、液晶越しに存在しているのがキャラクターである。というものである。それもまた一段と存在の証明に影響していると考えている。

終わり。

落ちはない。